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「ウォールデン 森の生活」

「ウォールデン森の生活」

読んだのは随分と前になる。

もうあまりにも前に読んだ書籍なので、詳しい内容の大半は忘れてしまったが、森の中での自給自足の簡素な生活に憧れたことと、そのような生活をしているソローに深い感銘を受けた事は今でもしっかりと覚えている。

 

ニュースで「賃金が毎年しっかり増えていく状況を実現していく」と言う内容を読んで、毎年成長し続ける必要とはどのような事なのだろうか?

 

去年取れていた、芋の収穫量が年々1、1.1倍1.2倍1.3倍・・・終わることなく増え続けるという事なのだろうか?

ではニワトリの卵は、今日は1個、明日は2個、あさっては3個と増える事なのだろうか?

 

土地の値段は、今年は1000円/坪、来年は1200円/坪、再来年は1300円/坪と言う事なのだろうか?でも1000円は1000円分に見合う給料が配給されていて、1300円になったからと言って上がった給料分300円、物価も上がっている。当然、土地の値段も上がるので買う事の出来る土地は、同じ面積しか買うことは出来ない。

 

話がややこしいかもしれないが、「給料が上がる」とは、ニワトリや芋の収穫を上げる事には意味は違ってくる。

その事は生産効率だから、給料とは違う。

では賃金を上げ、物価を押し上げる事に何の意味があるのだろうか?

 

多くの物質社会で、その恩恵を享受し生活しているかのような現代を生きている私たちは、本当に授かり受け取れているのだろうか?

享受と言う表題の下には、搾取と言う名の競争世界があり、常に発展し続ける必要を迫られていると思う。

競争と比較が悪いとは言えない。

でも、人と比較することでしか満足できない社会を作り上げて行く事に、時々立ち止まり自身の立ち位置を確認してほしい。

そして、上昇し続けているように「見せかけ」られている社会構造と自身の働き方を客観的な視点で考えてみる必要がある。芋や野菜のような現物が増えるのならわかるような気がする。しかし、目に見えているようで、本当は手に入っていない物の基準が幸福の度合いを測る基準となった時、その偽物の幸せが、本当の幸せだと言えるのだろうか?

オランダの「黒いチューリップ」を私たちは、今までも探し求め続けているとしたら、終わりの初めに今立っているような気がします。

チューリップ・バブル - Wikipedia

 

畑の野菜は、肥料や防虫剤がなくても、元気よく収穫量を上げる事が出来る。各々が「森の生活」を楽しむことは可能なのです。必要でない物に過剰に依存させられていることに時々立ち止まり、客観的に自身を見る事はとても重要な事ではないでしょうか。